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宮崎地方裁判所 平成6年(ワ)561号 判決

原告

齊藤峯子

隅田勝利

隅田徹

右三名訴訟代理人弁護士

中島多津雄

被告

医療法人同心会

右代表者理事長

古賀和美

右訴訟代理人弁護士

殿所哲

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告齊藤峯子及び同隅田勝利に対しそれぞれ金三〇〇万円、同隅田徹に対し金四〇〇万円及び右各金員に対する平成六年九月一八日から支払済みまで各年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、亡隅田春種(以下「春種」という。)が、平成三年九月四日被告の開設する古賀総合病院(以下「被告病院」という。)において膀胱全摘出及び回腸導管造設術を受け、その後、合併症として腸閉塞(イレウス)を発症したことから、同月一九日イレウス解除術を受けたところ、手術後も覚醒せず、同月二一日脳障害により死亡したことについて、春種の相続人である原告らが、被告に診療契約上の債務不履行に基づく責任があるとして損害賠償を請求している事案である。

二  当事者間に争いのない事実

1  春種は、大正三年四月一日生まれの男性である。春種の相続人は、子供である原告齊藤峯子、同隅田勝利、同隅田徹及び訴外某の合計四人である。

2  被告は被告病院の経営者である。

3  春種は、平成三年七月ころ宮崎県児湯郡高鍋町所在の黒木内科医院に通院したところ、同医院の検査で血尿が認められたことから、同病院の黒木宗俊医師は、春種に対し、膀胱及び尿道の精密検査などのため被告病院を紹介した。

4  春種は、平成三年八月八日、被告との間で、右精密検査の実施並びに膀胱及び尿道に関する疾患の治療を目的とする診療契約を締結し、同月一三日以降、同病院に入院して種々の検査を受けたところ、膀胱癌が発見された。

被告病院の医師は、平成三年九月四日、春種につき、膀胱全摘出及び回腸導管造設術を実施したところ、手術自体は無事終了したものの、春種はその後、合併症としてイレウスを発症した。

5  そこで、被告病院の医師は、平成三年九月一九日、全身麻酔によるイレウス解除術を実施したところ、春種は、そのまま覚醒することなく、同月二一日、脳障害により死亡した。

三  原告らの主張

1  責任原因

膀胱全摘出及び回腸導管造設術を行った場合には合併症としてのイレウスが発症することがあるから、被告には、春種のイレウスの発症につき細心の注意をもってその徴候を発見し、次のような迅速かつ適切な治療をなすべき注意義務があったのに、これを怠った。

(一) 吸引療法の遅滞

被告は、平成三年九月一六日腹部X線写真により春種がイレウスを発症したことを認識し、さらに翌一七日には同人が嘔吐し、血液検査の結果も脱水症状を示すなどイレウスの症状悪化が顕著になったのであるから、同月一六日(遅くとも同月一七日)の時点で、胃管を胃内に挿入したり、腸内チューブを用いるなどして胃内容や閉塞上部の膨満腸管内容を吸引し、減圧を図る、いわゆる吸引療法を実施すべきであったにもかかわらず、被告は、同月一九日午後一〇時一〇分までこれを実施しなかった。

(二) 水分電解質の補給不足

イレウスの治療にあたっては、吸引療法と並行して、輸液により一日当たり約三〇〇〇ミリリットルの水分電解質を補給することが必要であるにもかかわらず、被告は、春種に対し、一日当たり約二〇〇〇ミリリットルの水分電解質しか補給しなかった。

2  因果関係

春種は、平成三年九月一六日以降、イレウスを発症していたところ、被告が吸引療法を適時に実施せず又は水分電解質を必要量補給しなかったことにより、同人のイレウスは悪化し、脱水症(血液濃縮)又は多血症による脳血管の血行障害を生じ、その結果脳障害により死亡するに至った。

3  損害(請求総額一〇〇〇万円)

(一) 逸失利益 三八四万四八〇〇円

春種は死亡当時七七歳であり、会社役員として一か月一八万円の収入を得ていたところ、同人が八一歳まで稼働するとして、生活費割合を五〇パーセントとみて新ホフマン方式で算出すると、その逸失利益は右のとおりとなる。

(二) 死亡慰謝料 二〇〇〇万円

(三) 弁護士費用 一〇〇万円

(原告隅田徹のみ)

よって、原告齊藤峯子及び同隅田勝利は、被告に対し、それぞれ債務不履行による損害二三八四万四八〇〇円(弁護士費用を除く。)のうち相続分四分の一に対応する五九六万一二〇〇円の内金三〇〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である平成六年九月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求め、同隅田徹は、被告に対し、債務不履行による損害として右三〇〇万円と弁護士費用一〇〇万円の合計四〇〇万円及び右同日から支払済みまで右同割合による遅延損害金の支払いを求める。

四  被告の主張

1  吸引療法について

春種のイレウスは、腹部膨満がなく、排ガス及び排便も認められる単純性イレウス(不完全イレウス)であったのであるから、完全イレウスであった場合に比べ、吸引療法により胃腸管の内圧を下げ、口側腸管の循環障害などを改善する必要性は相対的に低い。実際に被告が平成三年九月一九日午後一〇時一〇分(イレウス解除術実施直前)に行った胃管挿入による吸引の結果でも、胃液一五〇ミリリットルが排出されたのみであるから(消化管内容液の貯留に伴う腹部膨満を改善するために吸引療法を実施した場合には、通常一〇〇〇ないし二〇〇〇ミリリットルの貯留物が排出される。)、春種の腸内貯留物量は吸引療法を必要とする程度に至っていなかった。

さらに、吸引療法には早期離床が制限され、腸蠕動の促進を図ることができなくなるという欠点も存在することを併せ考えると、平成三年九月一六日ないし一七日の段階で春種に対し吸引療法を行う必要はなかった。

2  水分電解質の補給について

被告は、春種に対し、経中心静脈栄養療法により一日当たり約二二〇〇ミリリットルの水分電解質を補給していたところ、他方、春種は食事(経口摂取)によっても水分を補給していたのであるから、これらを合計すると、一日当たり約三〇〇〇ミリリットルの水分電解質の補給は実施されていた。よって、水分電解質の補給が不足したことはない。

3  因果関係について

仮に原告ら主張の過失が認められるとしても、春種の尿量、尿比重及び電解質の数値などを総合判断すると、同人が脱水症を起こしていたとは認められないから、右過失と春種に生じた脳障害との間に因果関係は認められない。春種は、40.1度の発熱を生じた平成三年九月二〇日午後三時ころ(イレウス解除術終了後約一二時間経過時)、原因不明の中枢神経障害を来したものと考えられる。

五  争点

1  被告病院の医師による診療行為について、春種のイレウスに対する、吸引療法の遅滞又は水分電解質の補給不足による注意義務違反が存し、これにより春種が死亡したかどうか。

2  1が認められた場合の損害の額

第三  争点に対する判断

一  当事者間に争いのない事実、以下に摘示する証拠及び弁論の全趣旨により認められる事実を総合すると、本件の事実経過は以下のとおりである。

1  被告は、昭和二六年一月一八日、病院及び診療所を経営し、科学的で且つ適正な医療を与えることを目的として設立された医療法人であり、平成三年当時宮崎市髙千穂通二丁目五番七号において古賀総合病院(被告病院)を経営していたところ、平成六年一〇月一日に同市池内町数太木一七四九番地一に同病院を移転し、現在に至っている(弁論の全趣旨)。

被告病院の体制は、常勤医師が二三名、非常勤医師が二八名、看護婦(准看護婦などを含む。)が一五九名であり、うち泌尿器科については、常勤医師が二名、非常勤医師が一名、看護婦が一五名である(乙七)。

春種に対する診療を主に担当した藤戸章医師は、昭和五七年三月京都府立医科大学医学部を卒業後、同年五月医師国家試験に合格するとともに同大学研修医となり、昭和六三年一月同大学泌尿器科助手となり、同年九月一日被告病院泌尿器科部長に就任し、現在に至っている。同医師は、これまで約三〇例の膀胱全摘出及び回腸導管造設術(腸の一部を切取り、それを尿路として利用し、腹壁に繋ぎ、尿を外部に排出する手術)を実施しているが、そのうち一例が合併症として不完全閉塞型のイレウスを発症し、もう一例が完全閉塞型で腸管が壊死に陥っている絞扼性の癒着性イレウスを発症した(乙七、被告代表者)。

被告代表者であり被告病院院長でもある古賀和美は、昭和四九年三月鹿児島大学医学部を卒業し、同年五月医師国家試験に合格、同年六月社会福祉法人三井記念病院に勤務し、昭和五四年六月埼玉医科大学医学部第一外科助手となり、昭和六〇年一二月には同科講師となり、昭和六一年二月同大学の学位を取得するとともに、同大学を退職、同年三月から八月まで宮崎医科大学医学部第一外科で研修した後、同年九月被告病院院長に就任し、現在に至っている(乙七)。

2(一)  春種は、大正三年四月一日生まれの男性である。春種は、昭和六三年から宮崎県児湯郡高鍋町大字北高鍋二六〇三番地で黒木内科医院を営む黒木宗俊医師による胃及び一二指腸潰瘍の治療を受けていたが、高齢の割に全身状態は良好であった。黒木医師は、春種が、平成三年七月中旬以降、排尿痛、頻尿及び血尿を訴えたことから、下部尿路の感染と考え、治療してきたところ、症状が軽減したにもかかわらず尿の異常所見が持続したため、難治性膀胱炎と診断し、同年八月七日、春種に対し、膀胱及び尿道につき精密検査を受けることを勧め、被告病院泌尿器科宛の紹介状を交付した(乙一、五)。

(二)  春種は、平成三年八月八日、被告病院泌尿器科外来を訪れ、被告との間で、膀胱・尿道の精密検査及び膀胱・尿道に関する疾患の治療を目的とする診療契約を締結し、尿検査、超音波検査及び膀胱鏡検査などを受けた結果、多発性乳頭状膀胱腫瘍のため入院が必要と診断され、同月一三日から被告病院に入院した。

藤戸医師は、平成三年八月一四日から骨盤部及び上腹部のCTスキャン撮影などの検査を順次実施し、同月二〇日には、飯田明男医師の補助を受け、腰椎麻酔による膀胱鏡検査を行い、採取した組織につき病理組織検査を実施したところ、膀胱後壁に二か所の乳頭状腫瘍があり、同所に癌細胞が認められた。(乙一、五、被告代表者)

(三)  そこで、藤戸医師は、平成三年九月二日、春種及び同人の家族に対し、①経尿道的な手術(尿道から手術器具を入れて腫瘍を除去する手術)では癌の根治は得られないこと、②膀胱を全部摘出する手術をすることにより、遠隔転移のない限り、癌を根治できること、③右膀胱全摘出術は、尿路を変向しなければならず、そのためには回腸導管造設術を行う方が望ましいこと、④膀胱全摘出及び回腸導管造設術は泌尿器科の手術の中でも患者への侵襲が大きく、手術時間は八時間から一〇時間を要し、また輸血が必要となることもあること、⑤術後の合併症として麻痺性又は癒着性のイレウスや肺炎等の発症が考えられること、⑥春種には心臓、肺ともに大きな危険因子は見あたらないので、手術には十分耐えうること、しかしながら、術中、術後を通じて予測できない身体的異変が起こる可能性もあり、不測の自体が起こりうることを承知されたいこと及び⑦以上の事柄を了解されるならば、手術は全身麻酔の下で同月四日午後に行う予定であることを説明し、春種らから同意を得た(乙一、二、五、被告代表者)。

(四)  藤戸医師は、指宿一彦医師(外科医)、飯田医師及び李恵燦医師(麻酔医)の補助を受け、平成三年九月四日午後二時一分から全身麻酔による膀胱全摘出及び回腸導管造設術を開始し、右手術は午後七時四五分に無事終了した(乙一、五、被告代表者)。

3(一)  一般に、開腹手術後には、交感神経の興奮・緊張により、腸管運動機能の低下が発生し、腸ガス無排出、鼓腸、腹部膨満感及び腸雑音消失などの症状を呈するが(かかる状態を「術後腸管麻痺」または「生理的イレウス」という。)、通常は、術後三ないし八時間目ころから徐々に回復し、四八ないし七二時間で最初の排ガスをもって正常状態に戻る。

生理的イレウスに対する治療としては、腸蠕動亢進剤の投与や吸引療法などがある。(甲一)

(二)  これに対し、開腹術後に腸管の蠕動がいったん開始された患者が再びイレウス症状を呈する場合(いわゆる「術後イレウス」)には、腹膜炎に随伴した「麻痺性イレウス」又は機械的な原因による「癒着性イレウス」とがあり、後者が術後イレウスの八ないし九割を占める。「癒着性イレウス」には、腸管の血行障害を伴わない「単純イレウス」と、腸管の血行障害のために腸壊死に陥りかけ、又は腸壊死を合併した「絞扼性イレウス」とがあるが、その発症の比率はおよそ四対一である。

術後イレウスの症状としては、嘔吐、疼痛(最初は疝痛様・痙攣様で周期的であるが、進行すると持続痛となる。)、鼓腸、排便・排ガスの停止及び脱水症状(血液濃縮、尿量減少、頻脈など)などがあるが、特に絞扼性イレウスの場合には、単純性イレウスに比べ、症状が激烈である上、発症・経過が急激で、しばしばショック症状を呈すること及び発熱・頻脈・著名な白血球増加(抹消血白血球数が単純イレウスでは一立方ミリメートル当たり一万前後であるのに対し、絞扼性イレウスでは一立方ミリメートル当たり二万以上となることもある。)が認められることなどの特徴を有するが、診断は右症状の有無・程度及び腹部単純X線像・超音波診断・CTスキャンの所見などを総合的に判断することにより行われる。

術後イレウスの治療としては、単純性イレウスの場合には、①イレウスによる嘔吐・閉塞部口側腸管内の液体貯留による脱水症状と電解質の不均衡を改善するための水分・電解質・栄養の補給(いわゆる「輸液療法」。最初の二四時間での総輸液量は「一日の尿量一五〇〇ミリリットル+不感蒸泄一〇〇〇ミリリットル+消化管吸引量」を目安とし、その後の基本輸液量は一日当たり二四〇〇ないし二八〇〇ミリリットルを目安とする。輸液療法中は血清電解質濃度などに注意し、尿量は一時間に五〇ないし六〇ミリリットルを確保する必要がある。)、②経鼻的にチューブの挿入することによって、閉塞上部の胃・腸内容を吸引、減圧し、もって閉塞腸管の捻れ・屈曲を軽快させ、口側腸管の循環障害、浮腫・腫脹を改善することによって、腸内容の通過を図る方法(いわゆる「吸引療法」。ショート・チューブを胃内に挿入して行う方法と、ロング・チューブを腸内の閉塞部まで漸次挿入する方法とがある。前者は、挿管・抜去が容易である反面、減圧効果が劣り(胃内容及び胃内に逆流した腸管内容並にガスを吸引排除し、間接的に拡張腸管を減圧するに止まる。)、後者は、胃内容及び拡張した腸内容を直接的にほとんど吸引除去できる(一日一〇〇〇ないし二〇〇〇ミリリットルの吸引量がある。)点で効果が大きい反面、幽門通過が難しい上、X線透視を要することが多い。)、③腸蠕動亢進剤の投与、④腸内細菌の異常増殖を抑制するための抗生物質投与及び⑤腸蠕動を促進すべく早期離床や体位変換を促すなどのいわゆる「保存的治療」を行った後、寛解されないものは手術適応を決定するのに対し、腹膜炎による麻痺性イレウスや絞扼性イレウスの場合には緊急手術を行うが、かかる場合であっても術前管理として右保存的治療は行われる。

ただし、単純性の癒着性イレウスとして保存的に治療している患者に、果たして絞扼性の要因がないと断定できるか、また断定できたとしてそれを保存的に治癒させ得るか、手術を行うべきか否か、再手術後の再癒着をいかにして防ぐかなどの判断は極めて困難であるとされている。

また、術後早期の再手術は、一般的に、消化管が浮腫でもろく癒着も強いため、可及的に一ないし二か月後に遅らせることが望ましいが、保存的療法の継続中に症状が悪化した場合には手術の適応となるし、保存的療法が有効であるかどうかの決定は遅くとも三日以内で下す必要がある。(甲一、乙三、被告代表者)

4(一)  春種は、平成三年九月四日午後七時五二分ころ人工呼吸器及び挿管を付けたまま集中治療室に帰室し、同日午後九時三〇分ころ麻酔が切れ、半覚醒状態になり、翌五日午前零時三〇分ころには、自然呼吸が安定したことから、人工呼吸器などが取り外された。

藤戸医師は、右手術直後から、癒着性イレウスの発症を警戒して、輸液療法として経中心静脈栄養療法(IVH)を行い、一日当たり約二〇〇〇ミリリットルの水分電解質を補給するとともに、腸蠕動亢進剤であるパントールを予防的に投与したり、看護婦に対し、排ガス、排便、腹部膨満感及び嘔吐などにつき注意しつつ看護するように指示を与えるなどした。

春種の平成三年九月五日の体温は三七度台後半から三八度台前半とやや高めに推移し、創痛は時折認められたが軽度であった。(乙一、五、被告代表者)

(二)  春種は、平成三年九月六日午後二時ころから、腹部不快・膨満感を有するようになったが、同日午後五時ころ、腹部単純X線撮影を受け腹部内のガスが順調に下降してきていることが確認され、同日午後八時ころには、最初の排ガスが認められた。(乙一)

(三)  藤戸医師は、平成三年九月七日から同月一三日まで連日腹部単純X線撮影を行うなどして春種の経過を観察したところ(ただし、同月一二日はX線撮影は実施していない。)、春種は、同月七日は、体温も三六度台後半から三七度台前半に落ち着いてきた上、ガスも順調に排出し、二度の排便(うち一回は水様ながら多量であった。)が認められたほか、ベッド脇に座ったり、立ったりできるようになった。

平成三年九月八日も、排ガスが順調に認められたほか、少量ではあるが排便が三回認められ、また前日同様ベッド脇に座ったり立ったりできるようになり、X線撮影でも回腸のガス像がかなり消失したことが認められた。

平成三年九月九日にも排ガス及び排便が認められたほか、この日実施された尿細菌検査の結果も陰性であった。そこで、被告病院の医師らは、春種に対し、できるだけ起きて腸の蠕動を促進するように指導した。

春種の経過はその後も良好で、平成三年九月一〇日は創痛もなく、排ガスが認められた。九月一一日は、午前九時三〇分ころ氷片を口に含み、午後一時ころ番茶四〇〇ミリリットルを経口摂取し、午後七時ころ院内の廊下を歩行したほか、排便も少量認められた。九月一二日には、午前一時から午前七時にかけて強い腹部膨満感が認められたが、排ガス及び排便が断続的に認められ、流動食を全量経口摂取できるようになり(これにより一日当たり約一五〇〇ミリリットルの水分補給がなされた。)、午後三時三〇分ころ及び夕食後廊下を歩行したりして腸の蠕動促進に努めたところ、腹部膨満感も軽減した。九月一三日にも軽度の腹部膨満感は認められたものの、排ガス、排便も認められ、廊下を歩行するなどした。(乙一、四、五、被告代表者)

(四)  春種は、平成三年九月一四日以降も、腹部膨満感を訴えるものの、食慾は旺盛で、排ガス、排便や歩行によって腹部膨満感が軽減するといった一進一退の状態が、同月一六日午前中まで続いた(乙一、四、被告代表者)。

5(一)  ところが、平成三年九月一六日午後二時には、春種自身は苦痛は訴えないものの腹部の膨隆が認められ、同日午後五時ころからは強い腹部膨満感及び排ガスの停止などが認められるようになったため、医師の診察を受けたところ、発熱及び腹痛は認められなかったものの、腹部軟膨満が認められたほか、腹部単純X線像によると鏡面像が認められたことから、術後イレウスの疑いありとの診断がなされた。そこで、被告病院では、藤戸医師に加え、外科医である被告代表者や指宿医師らも春種の治療に積極的に関与することにした。

被告病院の医師らは、まず、術後イレウスに対する一般的な治療として、食事や水分などの経口摂取を禁止したほか、午後七時五〇分ころ指宿医師の指示により腸蠕動亢進剤であるプリンペランを投与し、また歩行を促すなどの保存的治療を継続して行った上、看護婦に対し、嘔吐物の確認や排ガス・排便の有無など症状の観察を徹底するよう指示した。

春種の腹痛は自制できる範囲内のもので、腸動も認められたが、排ガス及び排便は認められず、血圧は午後九時五五分に一七四mmHg―一〇〇mmHgと高かった。

そこで、被告病院の医師らは、平成三年九月一六日午後一〇時ころ、再度春種を診察した結果、翌朝腹部X線撮影を行い、春種の全身状態を勘案して手術適応の有無について判断することに決定した。(乙一、四、五、被告代表者)

(二)  春種は、平成三年九月一七日午後六時五〇分ころ黄土色様のものを多量に嘔吐したことから、午前七時一〇分ころ腸蠕動亢進剤プリンペランの投与を受けたところ、一旦吐き気が消失し、午前八時三〇分ころには便の色のついたものが少し出たものの、午後四時五〇分ころ再度食物残留物と思われる緑色のものを多量に嘔吐した。しかし、午後七時には少量の排便が認められ、午後九時には一旦腹部膨満感が消失するなど、一進一退の状態が続いた。なお、午前七時一〇分ころの血圧は一三八mmHg―九四mmHgであった。

この間、被告病院の医師らは右同日午前九時ころ診察を行い、春種に排ガス・排便などが認められたこと、白血球数が上昇してはいるものの一立方ミリメートル当たり一〇六〇〇に止まっていること及び腹部単純X線像によると前日よりガスの位置が下がっているように思われたことなどの所見から、同人は単純イレウスの状態にあり、腸蠕動亢進剤の投与や早期離床を促すことなどを中心とした保存的治療を継続すれば足り、吸引療法の必要はないものと判断した。(乙一、五、被告代表者)

(三)  春種は、平成三年九月一八日午前四時から五時にかけて、強い腹部膨満感を訴えていたが、午前七時以降断続的に排ガスが認められ、また、午前九時ころ中等量の排便があり、午前一〇時ころ、少量の嘔吐(春種がこの時以降嘔吐した事実は認められない。)と同時に少量の排便も認められ、腹部膨満感、吐き気及び痛みが時折解消している。この日の血圧は、午前七時に一五〇mmHg―九〇mmHg、午前一〇時三〇分に一六四mmHg―一〇四mmHg、午後二時に一四八mmHg―八八mmHgで、低血圧傾向は見られない。

被告病院の医師らは、右同日午前九時四〇分ころ、腹部単純X線撮影するなどして診察を行ったが、従前どおりの保存的治療を継続することとした。(乙一、五、被告代表者)

6(一)  春種は、平成三年九月一九日午前一時三〇分ころから終日強い腹部膨満感を訴え、排ガスも認められなくなるなど、イレウス症状の悪化が認められるほか(ただし、午前二時四五分ころプリンペランの投与を受け、午前四時一〇分から午後七時まで少量ないし中等量の排便が五回にわたり認められ、腹部膨満感が時折緩和されることはあった。)、午前五時四〇分ころには頭痛を訴え、午前八時五五分ころからは寒気及び体の震えを覚え、午前九時五五分ころには体温も38.3度に上がるなど、全身状態が悪化した。

春種の体温は、右同日午前一一時五分ころには一旦36.6度まで下がったものの、午後二時ころには37.7度、午後五時三〇分ころには38.8度、午後七時ころには38.7度と再び上昇し、また、午後五時四二分ころ採られた同人の心電図には、洞性頻脈、非特異的T波異常及びQTc短縮の異常が認められた。

被告病院の医師らは、この間、同日午後一時ころ腹部単純X線撮影を実施し、午後四時ころプリンペランを投与し、また、午後六時ころには名越医師が診察するなどしたものの、右イレウス症状の悪化は改善されず、これに腹部単純X線撮影の結果などの所見を総合し、春種が汎発性腹膜炎による麻痺性イレウス又は腸壊死を合併した絞扼性イレウスを発症した疑いがあると判断し、保存的治療の限界を認識し、開腹によるイレウス解除術を選択することを決定した(ただし、この日の白血球数は一立方メートル当たり九三〇〇に止まり、尿及び血液中にも細菌は認められず、血圧の低下も認められなかった。)。(乙一、四、被告代表者)

(二)  そこで、藤戸医師は、平成三年九月一九日午後九時ころ、春種及びその家族に対し、①前回の膀胱全摘出及び回腸導管造設術の前に説明したとおり、合併症としてのイレウスの疑いがあること、②イレウスである場合には、イレウス部分の虚血及び壊死が進行して取り返しの着かないことになるので、緊急に再開腹(試験開腹)して、イレウスを解除しなければならないこと、③予定外の手術となるが、前回手術と同様の全身麻酔による再開腹はやむをえないことを説明して、その了解を得た(乙一、五、被告代表者)。

(三)  被告病院の医師らは、平成三年九月一九日午後一〇時一〇分ころ、術前管理として胃の内圧を下げ循環障害等を改善すべくマーゲンチューブ(胃管、ショート・チューブ)を挿入し、胃液など一五〇ミリリットルを排出した。

被告代表者は、平成三年九月一九日午後一〇時四八分、藤戸医師、指宿医師、中村義人医師、李医師(麻酔医)及び飯田医師の補助を受け、全身麻酔によるイレウス解除術を開始し、開腹したところ、春種のイレウスはかなり癒着が進行していて(小腸が腹壁に癒着し、空腸が脂肪組織に癒着し、さらに前回手術時の回腸吻合部が回腸導管部付近に癒着していた。)、吻合部を含む回腸の腸管が骨盤底部に落ち込むような形できついV字型に屈曲していた(キンキング)ものの、腸が捻れていることはなく、腹膜炎を起こしていることも、動静脈の絞扼による血行障害も認められなかった。被告代表者が右癒着部分を剥離すると、腸管壁がやや虚血状態になっている腸管も認められたが、癒着が一番ひどく軽度の循環障害を起こし白っぽくなった部分を剥離すると腸の循環も少し戻り赤みが増してくるといった状態であったことから、いまだ単純性のイレウスであり、切除の必要はないと判断した。そこで、被告代表者らは、再癒着によるイレウスの再発を回避すべく腸管が急角度で癒着することを防ぐスプリンティングの役割を果たすチューブを空腸から回盲部内に設置し、その両端は体外に露出させた。

なお、麻酔医である李医師は、右イレウス解除術中、春種の血圧、脈拍及び呼吸数などのバイタルサインを観察していたが、春種の血圧が、手術中一時、一九〇mmHg―一二〇mmHgとなったほかは、いずれも非常に安定しており、この間に同人に重篤な脳障害が生じたとは考えにくい。(乙一、五、七の1、2、被告代表者)

7(一)  右手術が平成三年九月二〇日午前三時一〇分ころ無事終了したことから、春種は午前三時二〇分ころ挿管したまま集中治療室に搬入された(乙一、五、被告代表者)。

(二)  同室においても、モニターにより春種のバイタルサインは常時観察されていたところ、同人の血圧が、平成三年九月二〇日午前四時ころには一八〇mmHg台―一〇〇mmHgと高かったことから、被告病院の医師らは、降圧剤(ミリスロール)を投与した。ところが、午前四時三〇分ころには八六mmHg―六〇mmHg台と逆に血圧が低下し過ぎたため、ミリスロールの投与を停止したところ、午前五時ころには一八〇mmHg―一〇七mmHgと再び高血圧症状が発現したため、再度ミリスロールを投与した(乙一、五、乙六の2、被告代表者)。

(三)  春種は、平成三年九月二〇日午前四時四〇分ころの体温は三七度と落ち着き、午前七時ころ名前を呼ばれてわずかに開眼するということがあったものの(同時刻の体温は37.7度)、午前一〇時ころから39.8度の発熱が認められるようになり、また、低下傾向にあった血圧が降下を止めず、午前一一時三〇分ころには八〇mmHg台―三〇mmHg台まで低下したため、ミリスロール投与が中止された(乙一、五、被告代表者)。

(四)  春種は、麻酔から覚醒する予定の平成三年九月二〇日正午ごろになっても、呼名反応、対光反応及び睫毛反射が全く見られず、体温も38.9度と高かったが、血圧は、午後一時以降、概ね、一一〇mmHg台―六〇ないし八〇mmHgへと回復していた。しかしながら、体温は下がらず、午後三時ころも40.1度と高いままであったことから、被告病院の医師らは、解熱剤及び抗生物質を投与し、氷枕を使用するなどして経過を観察したものの、同人の高熱は改善されなかったことから、春種の脳幹の一部(体温中枢)の障害を疑うに至り、神経内科の鶴田和仁医師に対し、神経学的診断を仰いだ。同医師は、同日午後四時三〇分ころ、春種を診察したところ、春種には、対光反応及び角膜反射がわずかに認められ、人形の目現象も認められるものの、深昏酔に陥り、痛み刺激に全く反応せず、四肢も弛緩した状態であったことから、大脳が広範囲に障害を受けた瀰漫性脳障害の状態で、脳幹の機能もかなり低下しているものと診断した(乙一、四、五、被告代表者)。

(五)  春種の血圧は、平成三年九月二〇日午後四時ころから徐々に降下し、午後一一時ころには七〇mmHg台―四〇mmHgとなり、体温は、午後六時三〇分には40.7度、午後九時には四一度と高温が続いた(乙一)。

(六)  そこで、藤戸医師は、平成三年九月二〇日午後一一時ころ、春種の家族らに対し、①春種は現在深い昏睡状態にあるが、原因は脳内の異常(出血、梗塞又は炎症)の発生が考えられること、②死亡を含む容態の急変もあり得、回復への治療は非常に厳しい状態であることを説明した(乙一)。

(七)  春種は、その後も症状が改善されることなく、四一度を超す発熱を続け、血圧もさらに低下し(平成三年九月二一日午前一時二〇分には五一mmHg―二四mmHg)、同日午前二時七分死亡した。

春種の遺体の解剖は行われず、同人の脳内にいかなる障害が生じたかを具体的に特定することはできない。(乙一、五)

8  なお、平成三年八月二七日から同年九月二〇日までの間、春種につきなされた血液、尿及び生化学検査の結果は、別紙「血液、尿、生化学検査一覧表」記載のとおりである。

二  右一における事実経過によると、春種の死亡に至る経過は次のとおりであると認められる。

1  春種は、膀胱全摘出及び回腸導管造設術を受けた後、術後腸管麻痺(生理的イレウス)の状態になったが、平成三年九月六日午後八時ころ(術後約四八時間経過時)最初の排ガスが認められ、腸管運動機能が一旦正常状態に戻った。

2  春種は、平成三年九月一二日以降、断続的に腹部膨満感を訴えるようになるなど腸管運動機能の低下が認められるようになった。

3  春種は、平成三年九月一六日午後五時ころから、排ガス・排便の停止など術後イレウスの症状を呈するようになったが、嘔吐及び脱水症状は認められず、腹痛も自制範囲内であるなど、程度は未だ軽微だった。

4  平成三年九月一七日以降、嘔吐が認められるようになるなどイレウス症状が悪化したが、排ガス・排便は認められ、白血球数の急激な増加も見られないなど、未だ単純・不完全イレウスの状態にあった。

5  春種のイレウスは、平成三年九月一九日午前中から、腸管の虚血状態及び循環障害が徐々に進行し、それに伴って、体の震え、発熱及び頻脈などの症状が認められるようになった。しかしながら、実際に腸壊死を合併し又は腸壊死に陥りかけた状態にまでは達していないことから、単純イレウスから絞扼性イレウスへの移行過程であったと考えられる。

6  春種は、平成三年九月二〇日午前一〇時ころから(イレウス解除術終了後約七時間経過時)脳に瀰漫性脳障害を生じ、それに伴って高熱を発するようになり、そのまま覚醒することなく死亡した。

三  争点1について

1 原告らは、吸引療法の遅滞又は水分電解質の補給不足によりイレウスが悪化し、脱水症状(血液濃縮)となって、これが春種の脳障害を起こした旨主張する。

(一)  ところで、脱水症には、①嚥下困難、衰弱、昏酔、中枢性・腎性尿崩症、不感蒸泄過大などの原因により「水」が欠乏する「高張性脱水症」、②感染、外傷、ストレス、出血などの原因により「水」と「ナトリウム」が等量欠乏する「等張性脱水症」及び③嘔吐、下痢、腸瘻、発汗過多などの原因により「ナトリウム」欠乏が「水」欠乏を上回る「低張性脱水症」がある。

①高張性脱水症と診断されるための指標としては、乏尿(尿量一日当たり三〇〇ミリリットル以下。正常値は一日当たり六〇〇ないし一六〇〇ミリリットルで、許容範囲は五〇〇ないし二〇〇〇ミリリットルである。)、ヘマトクリットが五〇パーセント以上及び血漿ナトリウム濃度(PNa)が一五〇mEq/1以上などがある。②等張性脱水症と診断されるための指標としては、ヘマトクリット(男性の場合の正常値は40.2ないし51.5パーセント)やPNa(正常値一三五ないし一四七mEq/1)は正常であるにもかかわらず、乏尿(0.5ml/kg/hr)が認められることなどがある。③低張性脱水症と診断されるための指標としては、尿量は正常であるものの、尿比重(正常値1.006ないし1.022)及び血圧が低いこと、ヘマトクリット及び血漿カリウム値(Pk 正常値3.3ないし4.8mEq/1)の上昇、血漿クロール値(Pc1 正常値九八ないし一〇八mEq/1)の低下、PNaが一三〇mE/1未満であること並びに尿素窒素(BUN 正常値八ないし二三mg/dl)の著しい上昇などがある。(甲二)

(二)  しかるに、平成三年九月四日に膀胱全摘出及び回腸導管造設術を受けて以降、春種の尿量に乏尿傾向は全く見られないことから、同人が高張性ないし等張性脱水症を発症したとは考えられない。

低張性脱水症については、平成三年九月二〇日のヘマトクリットは五四パーセントに達していること及び同月一七日以降BUN値が上昇していること(特に同月一九日以降は著しい上昇と言える。)が認められる。しかし、別紙のとおり、春種の尿比重、血圧、Pk値、Pc1値、PNa値に低張性脱水症を疑わせる異常値は存在しないこと及びヘマトクリットの値はイレウス解除術施術の当日(同月一九日)までは正常値内にあったことが認められる。また、BUN値の上昇については、春種に既往症として胃及び十二指腸潰瘍があった上、今回尿路変更術に伴う腸手術を行っていることから消化管出血の可能性があるほか、BUN値の上昇は若干の腎機能障害によっても生じうることなど他の原因も考えられる(乙五、被告代表者)。以上を総合考慮すると、春種が低張性脱水症を発症していたとは認められず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(三)  さらに、前期認定の事実によれば、被告病院の医師らによる春種のイレウスに対する処置は、春種の諸症状に対応したものであって、いずれも適当な処置がなされており、右処置に過失は認められない。

2 また、原告は、イレウスによる多血症が春種の脳障害の原因となったとも主張するが、本件全証拠によるも春種に多血症が発症したとの事実は認められない。

すなわち、多血症を疑い、検査を行うべき目安は、赤血球数一立方ミリメートル当たり六〇〇万以上、ヘモグロビン一八g/dl以上、ヘマトクリット五五パーセント以上である(甲二)。しかし、別紙記載のとおり、イレウス解除術終了の日である平成三年九月二〇日のヘモグロビンの値が一八g/dlであった以外は、同人の赤血球数、ヘモグロビン及びヘマトクリットは、二回の手術の前後を通じ、いずれも右の目安に該当していない。したがって、春種につき多血症の発症を疑うべき理由はなく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

三  以上によると、診療契約上の債務不履行を理由とする原告らの賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないので棄却することとし、民訴法八九条、九三条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官横山秀憲 裁判官古閑裕二 裁判官立川毅)

別紙〈省略〉

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